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浄因寺 (世田谷区) : ミニ英和和英辞書
浄因寺 (世田谷区)[じょういんじ]
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〔語彙分解〕的な部分一致の検索結果は以下の通りです。

: [いん]
 【名詞】 1. cause 2. factor 
: [てら]
 【名詞】 1. temple 
: [よ, せい]
 【名詞】 1. world 2. society 3. age 4. generation 
: [た]
 【名詞】 1. rice field 
: [く]
 【名詞】 1. ward 2. district 3. section 

浄因寺 (世田谷区) : ウィキペディア日本語版
浄因寺 (世田谷区)[じょういんじ]

浄因寺(じょういんじ)は、東京都世田谷区北烏山にある寺院。浄土真宗本願寺派に属し、開山は1646年(正保3年)没の祐念と伝わる〔〔。旧地は麻布三河台(現在は港区六本木3-4丁目の一部)で、関東大震災後の1924年(大正13年)に築地にあった円光寺とともに烏山の現在地に移転した〔〔『烏山の寺町』27-28頁。〕。浄因寺は「烏山寺町」を構成する26の寺院の1つで、最も早い時期に烏山に移転してきた寺院でもある〔〔〔『ふるさと世田谷を語る 烏山・給田』、29-31頁。〕。
== 歴史 ==
烏山寺町のメインストリートにあたる寺院通りは、町域を南から北に横切るように約600メートル続いている〔『改訂・せたがやの散歩道 一歩二歩散歩』236-237頁。〕。寺院通りから宗福寺(浄土宗)の角を左折し、同寺の墓地を過ぎたあたりに、妙寿寺法華宗本門流)の敷地と路地を挟んで向かい合うような形で浄因寺がある〔『烏山の寺所をたずねて二』32-33頁。〕。浄土真宗本願寺派に属し、本山は西本願寺山号を「寿光山」という〔『せたがや社寺と史跡その三』(1970年)21頁では住職の話として「真宗ではあるが本願寺派であるかどうかまぎらわしく、むしろ円光寺の方が寺格が高い」と記述している。〕〔〔〔。
浄因寺はかつて麻布三河台(現在は港区六本木3-4丁目の一部)にあった〔〔。創建年は1598年(慶長3年)にさかのぼり、開山は1646年(正保3年)没の祐念と伝わる〔〔。ただし、『御府内寺社備考』という資料では「起立年代相知不申候」として不明扱いしている〔『烏山寺町』129-130頁。〕。1695年(元禄8年)2月に発生した火災によって古記録を焼失したため、創建当時の詳細は不明である〔〔〔〔『せたがや社寺と史跡その三』21頁。〕。
『御府内寺社備考』の記述に拠ると、1708年(宝永5年)までは麻布今井寺町(現在は港区六本木3-4丁目の一部)の善学寺の隣にあったが、そこは水はけの悪い土地で墓所に水がたまるなどした上に狭かったため檀家一同が迷惑していたという〔。檀家の與右衛門が自分の地所のうち132坪を寄付するなどして、「境内年貢地四百廿四坪」となった〔。1781年(天明元年)12月4日、第6世住職勝応が本堂を再建したことが棟札によって判明している〔〔〔。
1878年(明治11年)10月には、赤坂檜町(現在の港区赤坂8-9丁目)にあった妙福寺を合併した〔〔『世田谷区社寺史料 第一集 彫刻編』145-147頁。〕。妙福寺は嘉永年間(1848年-1854年)の頃は赤坂今井町〔「赤坂今井町」は出典『世田谷区社寺史料 第一集 彫刻編』145-147頁の記述に従った。〕にあり、明治以後に赤坂檜町に移転した寺院である〔。合併時には、妙福寺の本尊阿弥陀如来像も浄因寺に移っている〔。
関東大震災後の1924年(大正13年)、第13世住職良雄は前住職の良啓と協力して、堂宇及び墓地を烏山の現在地に移転した〔〔〔〔。浄因寺は「烏山寺町」を構成する26の寺院の中で、最も早い時期に烏山に移転してきた寺院でもある〔〔〔。このとき同じく浄土真宗本願寺派の円光寺という寺院も築地から烏山に同時に移転し、良啓はこの寺の住職を務めることになった〔〔〔。円光寺は築地御坊内にあった寺院で、町人の墓地が多かったという〔。後に円光寺は埼玉県熊谷市に移転し、良啓は浄因寺の第14世住職となった〔〔〔〔。なお、円光寺は熊谷市銀座に現存している。
浄因寺は江戸詰めの福岡藩士の菩提寺であり、黒田長成福岡黒田家第13代当主)筆の山号扁額が残っている〔〔〔〔『烏山寺町』82-83頁。〕。どのような由来で菩提寺になったかは不明であるが、版籍奉還によって江戸にいた藩士たちが引き上げると寺も衰退した〔〔〔〔。浄因寺に残る墓地には士族のものが多く、その中には菊の紋章を付けて家柄の高さをうかがわせているものも見受けられる〔〔〔。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
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